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人は何のために生きるの?

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私は本当に尊いのですか?

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どんな宗教でも同じではないですか?

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聖書は本当に信頼できますか?

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「ゴスペル」って何ですか?

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神がおられるとどうしてわかりますか?

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神様が愛なら、どうして・・・?

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宗教を信じるのは弱い人間ですか?

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教会で聞く「罪」とは何?

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聖書が教える人間とは?

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十字架には何か意味があるのですか?

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信じるだけで救われるのですか?

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クリスチャンとはどういう人ですか?

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クリスチャンになってからどうなる?

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教会はどういうところですか?

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祈りにはどういう意味がありますか?

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キリストの復活は事実ですか?

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天国は本当にありますか?

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キリスト教についての疑問9
質問
罪とは何ですか?とても初歩的な質問ですが、キリスト教が言う「罪」とは何ですか。今ひとつよくわかりません。わかりやすく説明してください。
応え
初歩的な質問と言われていますが、これはとても大切な質問ですね。それは二つの方向性があると考えます。一つは目を上に向けて、神さまを仰ぎ見ることです。これはとてもストレートな方法です。具体的には、聖書が神さまについてどんな事柄を記しているのか、ということに心を集中させて聖書を読む方法です。そして、聖書に書かれている神さまご自身について、何度も何度も心の中で思い巡らすことです。

もう一つは、人間に目を向ける方法です。それは、聖書が人間についてどう語っているかに目を向けることでもありますが、同時に、自分自身に目を向けることでもあります。自分自身にも目を向けなければ、聖書が描いている人間についてきちんと理解できないからです。

聖書に描かれている人間は、聖書自身のことばで言えば「罪」にまみれた人間です。その「罪」にまみれた人間は、ほかならない自分自身でもあるのですが、その人間と向き合うことを抜きにしては、キリスト教を理解することはできません。そういう意味で、「罪」についての質問を、決して軽く見てはいけないのです。それを抜きにしては、キリスト教を正しく理解できないからです。

さて、聖書の中で「罪」について、非常に明確なことばが記されています。それはヨハネの手紙第一の3章4節のことばです。

「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」(新共同訳)。

つまり罪とは法に背くこと、法があってもその法を無視して従わないことです。この場合、聖書が述べている「法」とは、「神様のみこころ」と置き換えてもよいことばです。つまり、罪とは「神さまのみこころに反すること」なのです。

ところで、聖書の舞台となっているイスラエルの国では、ヘブライ語が使われていましたが、そのヘブライ語で罪のことを「ハッター」と言います。ハッターのもともとの意味は「的をはずすこと」だと言われています。つまり、神さまのみこころから離れた的はずれな生き方こそ、罪に染まった生き方なのです。しかし、実際にはわかったようでわからない説明です。ですから、神のみこころとは何なのかがわからなければ、キリスト教で言う罪もわからないはずです。次のようなことばも聞きます。

「教会では人は皆罪人だと言うけど、自分は罪なんか犯したことはない。」
これは、べつに間違った考え方ではありません。「罪とは法に背くこと」である点に関しては、その人が間違った見解を持っているわけではありません。ただ、問題なのは、どんな「法」の規準をそこに持ってくるのかということです。聖書の言う「法」とは、神さまのみこころが現れた神の法律、具体的には、モーセの十戒の中に示された神のみこころこそが、聖書の言う罪の規準なのです。

そのモーセの十戒を、イエス・キリストは二つのことばに要約されました。一つは神を愛すること、もう一つは人を愛することです。もっとまとめれば、結局は「愛」という規準に従って生きているかどうかが問われているということです。自分のとった行動の一つ一つが、神や人を愛する気持ちから出たものであるかどうか、その行動を支えている心のありさまが問われているのです。

たとえば、貧しい人たちの生活を支援する行為は、純粋な隣人愛からも出ますが、ただの名誉欲から出る場合もあります。あるいは、中傷に苦しんでいる人の味方になるのは、純粋な隣人愛からも出ますが、単に誹謗中傷を楽しむ人たちの仲間に加わりたくないという自己愛や自己保身から出る時もあるのです。

聖書が教える「罪」とは、内面のあり方が問われているのですから、「何かをしない」ことで罪から免れているとはいえないのです。実際に人を殺していなければそれでよいのかと言えばそうではありません。心に恨みや憎しみを抱くこと自体が愛に反するものとして、罪であると言われます。それでは恨みや憎しみを抱かないでいればそれですむのかと言えば、それもまた違います。それは「無関心」という愛の欠如の罪である場合もあり得ます。その人に関心を抱き、その人に対してなすこと、なさないことのすべてが愛から出ているのでなければ、それは罪なのです。

そのようなことまでが罪だとすれば、結局いたずらに規準を引き上げて、人間には手の届かない世界を理想として掲げただけではないか、という反論も聞こえてくるかもしれません。たしかに、人間には手の届かない規準であると思われますが、この規準を心の内で破るところから人間のあらゆる悲惨が生じているとする聖書の洞察は、鋭いものがあると思います。

聖書の人間像と自分自身の姿を、どれほど真剣に重ね合わせることができるのかが、聖書の教える「罪」を理解する重要なポイントであると思います。

自分の心の内にある、愛のない行動に一つでも気がついたとき、おそらく、聖書の描く罪がもっと身近に感じられるでしょう。

山下 正雄 著「悩んでいないで聞いてみたら?」キリスト教Q&A シリーズ(いのちのことば社)より