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人は何のために生きるの?

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私は本当に尊いのですか?

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どんな宗教でも同じではないですか?

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聖書は本当に信頼できますか?

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「ゴスペル」って何ですか?

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神がおられるとどうしてわかりますか?

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神様が愛なら、どうして・・・?

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宗教を信じるのは弱い人間ですか?

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教会で聞く「罪」とは何?

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聖書が教える人間とは?

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十字架には何か意味があるのですか?

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信じるだけで救われるのですか?

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クリスチャンとはどういう人ですか?

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クリスチャンになってからどうなる?

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教会はどういうところですか?

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祈りにはどういう意味がありますか?

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キリストの復活は事実ですか?

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天国は本当にありますか?

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キリスト教についての疑問2
質問
よく耳にする聖書のことばですが、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」ということばがありますよね。このことばによって慰めや励ましを受けた方の話をよく聞きます。しかし、私はどうしても、このことばを素直には受け取れないのです。私のような人間は、どう考えてみても神の目に価値のある尊い人間とは思えません。自己卑下や謙遜でいっているのではありません。本当にそう思えるのです。素直になればなるほど、よけい受け入れがたいように感じてしまいます。
答え
たしかに教会では、「神様はあなたを愛してくださっている」とか「あなたは神様の目には価値のある人間だ」ということばを耳にしますね。質問の中であげられているのは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という旧約聖書のことばです。

たしかにこの箇所は、多くの場面で引き合いに出されます。それでMさんは、このことばが引用されるたびに、自分には当てはまらないという違和感を感じておられるのですね。おっしゃるとおり、このことばは、だれにでも当てはめられるわけではないとも言えます。少し前のところから読んでいただくとすぐおわかりだと思いますが、このことばが直接語られているのは、旧約時代の選民であるイスラエル民族です。神の民であるイスラエルは、神様に対してその信頼を裏切るような罪を犯してしまったので国を追われ、外国の支配下に置かれてしまうという憂き目に遭いました。ところが、聖書の神様は完全にイスラエルを棄ててしまわれたのではなく、罪にまみれたイスラエルの救いを心から願っておられる、それを告げることばが、このイザヤ書の43章に出てくることばなのです。

そういう意味では、直接的にはイスラエル民族に語られたことばですから、個人個人に当てはめることができるかというと、必ずしもそうではありません。けれどもここから類推して、自分自身に当てはめて考えることは可能だと思います。

その昔、イスラエル民族を愛して選ばれた神様は、その民族が救われることを心から望んでおられました。どれほどイスラエル民族を愛して、これを重んじてこられたか、それを証するのがこのことばなのです。

同じことが、神様を信じる現代のクリスチャン一人一人に対しても言えます。神様の願いは、クリスチャンが罪に囚(とら)われて滅びることではなく、罪から解放されて、救われることです。そういう意味でクリスチャンもまた「神の目に値高く尊い」と言うことができると思います。Mさ
クリスチャンもまた「神の目に値高く尊い」と言うことができると思います。Mさんは、それでも、なお、このことばが素直に自分の中に入ってこないとおっしゃるのですね。どうしても、自分が尊く価値ある人間たどは思えないのですね。

ここには、ちょっとした誤解があるのだと思います。神様がイスラエル民族に対して「価値がある」とか「わたしの目に尊い」とかおっしゃっているのは、どういう観点からなのでしょうか。逆にMさんが、自分には価値がないと思われるのはどういう観点からなのでしょうか。

ちょっと考えていただきたいのですが、神様があのことばを語られた時、はたしてイスラエル民族は、だれが見ても神様の目に価が高く、尊い存在だったのでしょうか。実はそうではなかったのですね。神様を裏切り、悪や不正がはびこる国だったのです。ですから、イスラエルを襲っているさまざまな不幸な出来事は、自業自得とでもいったらいいようなものでした。つまり、だれが見ても取り立てて神から愛される価値があるようには見えない国だったのです。にもかかわらず神様は、イスラエルに対して限りない愛を示され、取るに足りないこの民を高価で尊いと言ってくださっているのです。

おそらくMさんが、「自分には神様から愛されような価値などない」とお考えになる時、その「価値」を、何かができることか、何か役に立つことができるとかいった価値基準で計るからではないでしょうか。世間一般で考えて、「尊い」とか「価値がある」というのは、何かの役に立つかどうかの基準が常に前面にあるように思います。何かができるからすばらしい、だれかの役に立てるから価値がある・・・・・いつもこういう目で人を計ったり、自分の価値を計ったりするのです。

しかし、聖書の神様が、人間を価値あるものとして愛されるのは、こういう価値基準にのっとっているわけではありません。何かができる、だれかに役立っているという点だけで考えるとすれば、全能者である神のみ前にはだれも価値があるとは言えないし、まして、罪深い人間にはその資格などあるはずもありません。

ところが、神様が「あなたは高価で尊い」と呼びかけられる時、それは無条件の愛に基づいているのです。何かできるから価値ある者として愛されるのではなく、「神様が愛してくださっているから、価値があり尊い」のです。つまり神様が、そのように神の愛を受ける存在として私たちを創り、生かしてくださっている、そこに価値があるのです。

山下 正雄 著「悩んでいないで聞いてみたら?」キリスト教Q&A シリーズ(いのちのことば社)より