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十字架には何か意味があるのですか?

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祈りにはどういう意味がありますか?

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キリストの復活は事実ですか?

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天国は本当にありますか?

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キリスト教についての疑問11
質問
十字架には何か意味があるのですか?ほとんどの教会堂には十字架が飾ってありますが、どうしてですか?
応え
私の書斎の壁には、聖書のことばを書いたいくつかの色紙が掛けてあります。その中の一つは、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ人ヘの手紙6章14節)という使徒パウロのことばです。私もパウロのように、全世界の人々の前に、キリストの十字架だけを誇りにして生きていきたいと願っています。私は、十字架を自分と無関係には語れません。私にとって十字架は世界史上最大の出来事です。

あなたも、ぜひ、十字架が、自分にとってどんな意味があるのかを考えてみてください。

私がキリストの十字架の意味を初めて悟ったのは、洗礼(バプテスマ)を受けた後の聖餐の時でした。「聖餐」とは、最後の晩餐の席でキリストが定められた、洗礼と同じように重要な教会の儀式です。キリストが弟子たちに、「これはあなたがたのための、わたしのからだです」と言って与えられたというパンを食べ、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言って与えられたというぶどう酒(コリント人への手紙第一 2章24〜25節)を飲んだその時に、私は、「キリストが私のために十字架にかかって体を裂かれ、血を流して、死んでくださった」ということを悟り、涙を流しつつ、キリストに感謝の祈りをささげたのでした。

それからしばらくたったある日、キリストの生涯を後ろ(復活)から前(十字架)にさかのぼって考えた時、私は、復活によってご自分が永遠の神の御子であることを示されたキリストが、十字架にかかって死なれたことを悟りました。私はこの時から、真の神の御子が私を救うために死んでくださった十字架を誇りとするようになったのです。

その後、私は、ある特別集会での説教を聞いて、ローマ帝国時代の残酷な死刑の方法であった十字架が、キリストの場合は、真の神が神の法律(聖書では「律法」と言います)を守らない罪人をさばき、罰し、さらしものにする、のろいの木であることを知りました。そしてこの日、私は、罪が一つもない神の御子が、神の法律を破った私のすべての罪を背負って、私の身代わりに神の法律に基づいてさばかれ、神にのろわれてくださったことを悟ったのです。キリストの十字架によって、私のすべての罪は赦されており、義である神がもう決して私
をお怒りになることはなく、むしろ私を愛してくださっていることを確信するようになったのです。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ人への手紙3章13節)。

やがて私は、聖書を読んでいくうちに、キリストが神と人を愛し、十字架の死に至るまで神のみこころに完全に従われた方なので、神が永遠の神の国で生きることができる者であると認めて、復活させて栄光を与えられたことを悟りました。この時、私はまた、キリストが、神のみこころに従えない私の代わりに、神に完全に従った者(義)と認められて、永遠の神の国に住む資格が与えられたことを知ったのです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(コリント人への手紙第二 5章21節)。

続いて私は、キリストの十字架が父なる神の計画によるものであったことを知り、御子をお与えくださるほどに、私のような罪深い者を愛してくださった父なる神をほめたたえるようになりました。また、父なる神のみこころに従い、私の身代わりとしてのろいの木にかかり、父なる神に見捨てられて死んでくださったキリストを、ますます誇るようになりました。さらに私は、この驚くべき神の愛を理解させてくださった聖霊に、心から感謝するようになったのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)。

30年前にキリストの十字架の意味を知り始めてから今日まで、その広さ、長さ、高さ、深さを知らされ続けている私が今日言えることは、十字架において現されている神の愛は語り尽くすことができないということです。私は、自分のためにも、あなたのためにも、使徒パウロの祈りを祈ります。「(神の愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ人への手紙3章18-19節)。

こういうわけで、私たち教会とクリスチャンは、驚くべき神の愛と計り知れないキリストの恵みのしるしである十字架を、教会堂にも、自分の家にも飾って、三位一体の神を心からほめたたえているのです。

後藤喜良著「キリスト教 ここが聞きたい! Q&A 21」(いのちのことば社)より抜粋